2005年11月03日
アバラ家 取り壊される

http://www.sankei.co.jp/news/051029/evening/30iti001.htm
「軍艦アパート」消える 昭和初期、なにわの面影残す
とっても立派だったのに残念.
2005/11/04追記:現在の画像を追加しました.
関連記事:
http://blog.livedoor.jp/ponbashi/archives/934232.html
2004年06月15日 立派なアバラ家
http://blog.livedoor.jp/ponbashi/archives/4883345.html
2004年07月25日 インドカレー屋 Dal-Roti(ダロティ) /アバラ家その3
http://blog.livedoor.jp/ponbashi/archives/5351001.html
2004年08月01日 浪速警察署 派出所跡 アバラ家その4
http://blog.livedoor.jp/ponbashi/archives/6572897.html
2004年09月07日 TWOTOP大阪日本橋店がヲタロードに移転・進出 その2
http://blog.livedoor.jp/ponbashi/archives/6358450.html
2004年12月10日 電気街の近くにあるお店とか
以下記事から引用メモ.
-----
http://www.sankei.co.jp/news/051029/evening/30iti001.htm
「軍艦アパート」消える 昭和初期、なにわの面影残す
最後の下寺住宅
昭和初期に建設された公営鉄筋住宅「下寺住宅」(大阪市浪速区下寺)が近く解体されることになった。木造平屋建てが主流だった当時、三階建て鉄筋住宅の煙突から煙がモクモク立ち上がる様子は軍艦のようだといわれ、「軍艦アパート」の異名もあった大阪の下町の名物建築。同時期に建てられた、市内の同じタイプの三つの住宅のうち二住宅はすでに解体が終わっており、昭和初期の風景がまた一つ、大阪から消える。
下寺住宅は昭和六年に建設された。約六千八百平方メートルの土地に鉄筋コンクリート三階建ての建物が数棟並び、二百六十四戸が入っている。当時、周辺は日雇い労働に従事する地方出身者らが集まり、バラック家屋などが密集していたことから、大阪市が住宅環境改善のため、建築した。
木造平屋建てばかりが立ち並ぶ風景の中で、コンクリート三階建ては異彩を放っていたという。水洗トイレやガス、ダスト・シュートも完備したモダン住宅。一方で、炊事に火を使うかまども残っていたため煙突もあり、これが「軍艦アパート」の異名の由来となった。
同八年にここで生まれた自治会長、佐々木利秋さん(72)は八人兄弟。「私が小さいころは、子供が八十人ぐらいはいましたね。住宅内の友人のお宅へ遊びに行って、そのまま晩ご飯をいただいたり、人情味のある人たちが住む住宅やった」と振り返る。
子供が増えて六畳と三畳の二部屋では手狭になった住人らは独自にベランダに木造で「出家(でや)」と呼ばれる部屋を増築。しかし、その後、多くはサラリーマンなどになって独立し、去っていった。住宅内の子供は、今では十数人となった。
大阪が焼け野原になった大阪大空襲の際も焼失を免れ、阪神大震災の時も無事だった。見た目は古いが、改装を繰り返して大切に暮らしてきたため不自由はないという。だが、コンクリートが割れるなど老朽化は避けられない。大阪市住宅局によると、鉄筋住宅の耐久年数は七十年といい、平成十年、住宅改良法に基づいて建て替えることが決まっていた。
このため、同時期にできた別の「軍艦アパート」二住宅は十四年九月までに解体。最後に残った下寺住宅では、住人約百九十世帯がこの跡地に建設される十四階建て住宅に移転する予定で、引っ越しが年明けにも始まる。
佐々木さんは「下寺住宅なら毎日、近所の人たちと顔をあわせてあいさつできました。仕方のないことだけど、離れるのは寂しいな」。
下寺住宅は住民の移転後、大阪市が依頼する専門家が学術調査で記録を残した上で、解体されることになる。
関連記事:
http://blog.livedoor.jp/ponbashi/archives/934232.html
2004年06月15日 立派なアバラ家
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2004年07月25日 インドカレー屋 Dal-Roti(ダロティ) /アバラ家その3
http://blog.livedoor.jp/ponbashi/archives/5351001.html
2004年08月01日 浪速警察署 派出所跡 アバラ家その4
http://blog.livedoor.jp/ponbashi/archives/6572897.html
2004年09月07日 TWOTOP大阪日本橋店がヲタロードに移転・進出 その2
http://blog.livedoor.jp/ponbashi/archives/6358450.html
2004年12月10日 電気街の近くにあるお店とか
以下記事から引用メモ.
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http://www.sankei.co.jp/news/051029/evening/30iti001.htm
「軍艦アパート」消える 昭和初期、なにわの面影残す
最後の下寺住宅
昭和初期に建設された公営鉄筋住宅「下寺住宅」(大阪市浪速区下寺)が近く解体されることになった。木造平屋建てが主流だった当時、三階建て鉄筋住宅の煙突から煙がモクモク立ち上がる様子は軍艦のようだといわれ、「軍艦アパート」の異名もあった大阪の下町の名物建築。同時期に建てられた、市内の同じタイプの三つの住宅のうち二住宅はすでに解体が終わっており、昭和初期の風景がまた一つ、大阪から消える。
下寺住宅は昭和六年に建設された。約六千八百平方メートルの土地に鉄筋コンクリート三階建ての建物が数棟並び、二百六十四戸が入っている。当時、周辺は日雇い労働に従事する地方出身者らが集まり、バラック家屋などが密集していたことから、大阪市が住宅環境改善のため、建築した。
木造平屋建てばかりが立ち並ぶ風景の中で、コンクリート三階建ては異彩を放っていたという。水洗トイレやガス、ダスト・シュートも完備したモダン住宅。一方で、炊事に火を使うかまども残っていたため煙突もあり、これが「軍艦アパート」の異名の由来となった。
同八年にここで生まれた自治会長、佐々木利秋さん(72)は八人兄弟。「私が小さいころは、子供が八十人ぐらいはいましたね。住宅内の友人のお宅へ遊びに行って、そのまま晩ご飯をいただいたり、人情味のある人たちが住む住宅やった」と振り返る。
子供が増えて六畳と三畳の二部屋では手狭になった住人らは独自にベランダに木造で「出家(でや)」と呼ばれる部屋を増築。しかし、その後、多くはサラリーマンなどになって独立し、去っていった。住宅内の子供は、今では十数人となった。
大阪が焼け野原になった大阪大空襲の際も焼失を免れ、阪神大震災の時も無事だった。見た目は古いが、改装を繰り返して大切に暮らしてきたため不自由はないという。だが、コンクリートが割れるなど老朽化は避けられない。大阪市住宅局によると、鉄筋住宅の耐久年数は七十年といい、平成十年、住宅改良法に基づいて建て替えることが決まっていた。
このため、同時期にできた別の「軍艦アパート」二住宅は十四年九月までに解体。最後に残った下寺住宅では、住人約百九十世帯がこの跡地に建設される十四階建て住宅に移転する予定で、引っ越しが年明けにも始まる。
佐々木さんは「下寺住宅なら毎日、近所の人たちと顔をあわせてあいさつできました。仕方のないことだけど、離れるのは寂しいな」。
下寺住宅は住民の移転後、大阪市が依頼する専門家が学術調査で記録を残した上で、解体されることになる。
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この記事へのコメント
1. Posted by チッパー 2005年11月03日 10:28
解体されてしまうんですね。目の前に住んでいながら知らなかった・・・
周りと比べて結構異彩を放っていたので怖くて中に入ることもできなかったけど、チョット中に入って見てみよっかな。
周りと比べて結構異彩を放っていたので怖くて中に入ることもできなかったけど、チョット中に入って見てみよっかな。